リュミエール兄弟のシネマトグラフ・カメラの特許は1895年2月13日に交付されています。
それは、1894 年にパリで行われたエジソンのキネトスコープの一般公開を鑑賞した父アントワーヌから映写型の機器の開発の指示が出されてから、わずか「1
年足らず」のことでありました。まさに、驚異的なスピードと言わざるを得ません。
しかもシネマトグラフカメラは、映写型の特徴だけでなく、軽量で多機能(撮影、映写、焼付)という大きな進化も遂げていました。
推測に過ぎませんが、リュミエール父子には以前からかなり動画に関する研究の積み重ねがあったのではないかと思われます。初期のフィルムも自社製のものでありましたし、1890
年に弱冠26 歳でエチケット・ブルーという新しい乾板感光材を開発した、弟ルイの優れた技術力という点も大きな原動力だったものと考えられますね。
今回この項で取り上げるレンズは、まさにこの最初期型シネマトグラフ・カメラに装着されていたレンズで、上の画像のカメラ前面に装着されている黒く小さいレンズと同型のものです。レンズ構成は極めてシンプルで、前群が2枚貼り合せダブレット、後群が1枚のメニスカスレンズとなっています。ソフトレンズとして有名な米Wollensak社のベリートVeritoレンズの構成を前後逆にした形であり、絞り開放では今回のレンズもかなりソフトです。作例は絞りf5.6相当の円盤絞りを入れていますが、それでもソフト感は十分に残りました。
さて、発売後大きな人気を博したシネマトグラフですが、リュミエール社のシネマトグラフカメラの管理は極めて厳重でした。
カメラは一切市販されず、同社が独占的に管理をし、撮影・上映する場合は代理人を通じて同社の技師が器具を持参して行うという限定的なものでしたが、エジソンのキネトスコープと異なり、スクリーンに映し出された動く映像には多くの観客が訪れリュミエール社は大きな利益を上げました。
ところが、人気が高まるにつれて、問題も顕在化してきます。一つは競争の激化です
。エジソンのヴァイタスコープに始まり、ヴァイオグラフ、クロノフォトグラフ、シアトログラフ、シネマトグラフxxx など多くの類似品が参入し、リュミエール社の需要独占状態はまもなく危うくなってきました。
さらに、需要の拡大とともに、技師の供給不足によりスケジュールや品質管理が十分にできなくなってきてしまいます。
1897 年、リュミエール社は代理人による独占管理を止め、機器とフィルムの一般販売を開始します。ところが、その頃にはすでに競合社の機器も改良が進んでおり、本家シネマトグラフよりも性能が高い機器が流通していることなどから、機器の販売も順調とはいえない結果となり、1905
年、リュミエール社はシネマトグラフの特許をPathe 社に譲渡し、映画製作を中止。あっさりと映画活動の表舞台から退場してしまいました。
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