Lens Impression
ライカの初期標準レンズの代表であり、35mm判という小型フォーマットの写真の実用性を世界に認めさせた優秀なレンズ、それがエルマーです。
もし、エルマーの性能が劣っていたら、35mm判カメラの歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
初期のエルマーには距離計連動機構も、統一されたフランジバックもありませんでしたが、後にそれらの機構に合致させるように、ライカ社自体で改造を行いました。統一された規格がなかったが由に、初期のエルマーには非常に多様なバリエーションば存在します。中でも、もっとも撮影に影響するのは、焦点距離の違いでしょう。
初期エルマーのピントノブの裏側には番号が刻印されています。その番号によって(一部の例外はあるものの)、そのレンズの個別焦点距離が分かりますが、その内容は以下の通りです。
0番 -- 50.5mm 1番 -- 49.6mm 2番 -- N.A. 3番 -- 48.6mm 4番 -- 50.7mm
5番 -- 51.0mm 6番 -- 51.3mm 7番 -- 51.6mm 8番 -- 51.9mm
100%がこの通りではありませんが、今回の個体は、中でも「最も焦点距離が短い」3番になります。
各番号を横に並べてみれば、一目瞭然ですね。
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エルマーの基本設計は、1920年のマックス・ベレクの特許ですでに出来上がっていました。
しかし、最初に発売された、ライツ・アナスティグマット、そしてエルマックスともに後群を3枚貼り合わせにする必要がありました。恐らくその時点で使用可能なガラスでは満足できる性能がえられなかったのもと思われます。
そして、旧エルマーになって、新開発のゲルツ社の高屈折低分散がらすによって、十分な性能のレンズが作られるようになりました。
ところが、それもつかの間、ゲルツ社が企業合併によって消滅すると、再びエルマーには急遽ショット社のガラスが装着されることになりました。
そして、そのある意味「急こしらえ」の新エルマーは、赤エルマーで新たな設計に変更されるまで、長期にわたって続くことになります。
以下は、「オールドレンズの最高峰 第4巻」からの抜粋です。
第一次世界大戦が終結し、従軍していたマックス・ベレクがライツ社に戻ってきたとき、マックスは一旦従軍前から従事していた偏光顕微鏡の開発業務に就いた。しかし、光学系の才能に気づいていたライツII世は、彼にバルナックが開発中の小型カメラの量産に向けて装着すべきレンズの開発研究を命じた。
当時ライツ社の光学部門は、20年近くにわたってカール・メッツに率いられており、エルンスト・アルベイトという優秀な設計者も活躍していた。本来であれば、彼らがバルナックのカメラのレンズの研究を行うのが順当な手法なのかもしれないが、忘れてならないのは、当時のライツ社の基幹業務は「顕微鏡」であり、ツァイス社などと熾烈なトップ争いをしていた時期であることだ。
まだ正式に量産するかどうかも決まっていないバルナックのカメラにメインの開発陣を割くわけにはいかない社内事情があったのかもしれない。
まさにマックスに白羽の矢が立ったのだ。
極めて短期間で、マックスは一つのレンズを開発する。DRP343086で特許を取得したレンズは、3群4枚構成、どう見てもエルマーと同じデザインである。
テッサーを前絞りに変更したようなデザインの特許であるが、設計思想はウナー前群とプロター後群のハイブリッドと定義づけされたテッサーとは異なっており、エルマーの「出発点はトリプレット」である。
時折、エルマックスの後群3枚貼り合せは、テッサーの特許から逃れるためという記述を目にするが、1920年時点でライツ社がこの3群4枚の特許を保持していたということは、特許回避は疑わしいだろう。
「特許通りには作れなかった、もしくは特許通りでは性能的に不十分であった」のではないのだろうか?
一部想定のデータではあるが、1920年特許のレンズ、エルマックス、初期エルマー、改良エルマー、の使用ガラスを見比べてみると、エルマックス製造時点で、1920年特許のレンズは特許通りに作ることが可能であったようにも思える。なぜなら、最後群のガラスに大きな差異は感じられないからだ。
しかし、実際のエルマーの最後群のレンズには明らかに「より高屈折率・低分散」のガラスが使用されている。
ライカカメラの「最初の量産レンズ」を決定するに当たって、1920年特許以上の性能を求め、貼り合せ面の追加による収差補正を強化し、3群5枚のライツ・アナスティグマット(エルマックス)が、設計されたことが想像される。
直後、ゲルツのゼントリンガーガラス工場でより高屈折率で低分散のガラスが開発され、3群4枚で十分な性能が確保できることが判明。エルマックスの3枚貼り合せには手間とコストがかかっていたため、早速1925年末からエルマーに変更されたのだ。
なお、1930年にツァイスのメルテがより明るいテッサーを実現するに当たっては、後群のみならず、前玉も新しい高屈折率ガラスを使用しているのが分かる。
ライカA型に装着されたエルマックスの製造本数は713本と言われている(ライツ・アナスティグマットは144本)。製造にかなりの手間と費用が掛かったことは想像に難くない。エルマーへの切り替えの手際があまりに良すぎるからだ。
ガラス一覧を見ると、エルマーに変更した時、前の3枚については全く手を加えていないように見える。
だったらエルマックスのままでよかったのではないか?Ernst Leitzの頭文字とMax Berekの名前。これほどふさわしいレンズ名はないだろう。
しかしここに大きな障壁が立ちはだかる。本書のトリプレット構成の項で取り上げたErnonレンズの会社、Ernemannエルネマンだ。
エルネマンはライツがエルマックスを市場に出す直前の1925年1月に類似の名称「Ermax」を商標登録申請しており、8月に認可を取得。
するとライツに対し、Elmaxの名称に異議を唱えてきた。困惑したライツ社は同年10月に急遽「Elmar」を商標申請し、翌年6月に認可された。
その後のカメラ・レンズ史に大きな足跡を残したレンズエルマーElmarがこうした一種の「ドタバタ」の中から生まれ出てきたとは、世の中何がキッカケになるかわからない。
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